蘭子の心情


Blog #44: 「天職」とは?

自然界から多く教えられ、学び、納得してきた私なので、生きとし生けるもの全てに
天職あり、と思えてならない。

「生きとし生けるもの」には、草木、花、魚、などは勿論、ペットや他の動物も含まれるし、人間も、その延長からなる国家も含まれてくる・・・と、私の頭の中ではなっている。

授かったままに、あるがままに、生きること
霊長類の長と自負する私達は、天職のままに生きている「花」にも上下をつけてきた。例えば、薔薇はたんぽぽより地位が高く、故に高価となる。でも、たんぽぽやチューリップ、すずらん自体には「階級意識」は無いだろう。だから、たまたま隣合せとなっても、卑下も奢りもなく、本来の姿を全うして「美しい」のだと思う。

人間も、花に例えるなら、薔薇系、チューリップ系、たんぽぽ系云々となるだろう。古今を通じて私たちは、「Who am I?」と問い続けてきた。社会通常の「肩書き」でひとまず落ち着いても、本人自身が納得していないケースが多く、無意識に真の自己探しを続けていることが以外と多いようだ。

自己探しは、あまり執念深く探求するより、可能な限り自身の内部の「声」に耳を傾けながら日々の諸事に応対して生きている中に、自然に判明するように思われる。自身で気付くこともあれば、人との会話で気付かされることもあろう。

私の場合は、大学生だった姪との会話が自己発見のきっかけとなった。

姪の穿った質問
1956年に留学し、数年後アメリカで社会人となった私は、日米貿易摩擦や文化摩擦の仕事に忙殺される日々で、自分のことを考える暇などなかった。年末に1ヶ月帰国しても最大関心事は「変わり行く日本」で、その観察、記録に没頭していた。

自己探しに熱中していたに違いない姪は、凄く私の「生き方」に関心を抱き、私にねばり付いて色々質問するのが常だった。或る年、通常の肩書きで答えない私にフラストレートした彼女は、マルティプル選択形式で質問したのである。「叔母様はご自分のことを、『芸術家と思われますか、それともビジネスマンですか、それともお坊さん』ですか?」

「お坊さん」に噴出した私だったが、なるほどなあ、と感銘した。自分が常に「生と死」を課題としてきたことを気付かされたからだった。私が絵を描くようになったきっかけは、米生活に疲れ「自然界に憩い」を求めて、だった。JFKが暗殺された日に、徹夜で月光の夜の絵を描いたのは「生と死」にとり憑かれていたからだろう。「ビジネスマン」は1978年に独立し起業して会社経営者となっていたからだ。

姪の質問で何かが私の中ではっきりし、次ぎの様に答えた。「私は、『感じ、それを咀嚼し、
記録し、伝える』人間」と。つまり、全て「過程」で生きる、世の中の動向も「過程」で思考する人間、となろう。

留学生時代「カルチュア・ショック」で悩み鍛えられ、社会人となってからは「日米文化摩擦」諸事に関与して、私の中で「世界の中の日本」はどうあるべきか、が年ごとに少しづつ具体化していった。ベアテ・シロタ・ゴードンの死で、「日本の天職」がはっきり、私の中で具体化したのでそれを書きたく思っている。
[PR]
# by Ranko-120 | 2013-02-19 23:45 | 若者への遺言


Blog #43: コッチ元NY市長の逝去

エドワード・アービング・コッチ元ニューヨーク市長がこの2月1日に88歳で亡くなった。彼の逝去に関しての追悼談やニュース記事で、最も言及されたのは彼の「NEW YORKness」
だった。
「-ness」は形容詞に付けて性質や状態を表す名詞語尾と岩波の英和辞典にある。
だから日本語では「らしさ」となり、コッチ氏は「ニューヨークらしい」市長だったとなろう。

b0206225_23302853.jpg

彼を愛した警官達に担がれ、オルガンが静かに奏でる「ニューヨーク、ニューヨーク」に見送られるコッチ元NY市長の棺 (2月5日2013.amNEW YORK)

具体的に「NEW YORKness」とは?

彼は1978年にNY市長となり、1989年迄の12年間(3期)、「統治不可能」と看做されていたニューヨークを治め、現在世界の人々が憧れの気分で望遠する今日のニューヨークの基盤をつくった市長として知られる。

b0206225_23313737.jpg

彼が死んだ2月1日に封切りされドキュメンタリー「Koch 」(バス停留所のポスター)

コッチが市長となった時のニューヨーク 
七〇年代のNYが如何に絶望的だったかを、現在40歳以下のNY住人は知らないし、想像することも出来ないだろう。

ベトナム戦争反対、公民権運動、ビッグ政府・ビジネス反対のデモが日がな繰り出され、
警官とデモの衝突も頻繁だった。一方エイズが蔓延し、アメリカは大不況真っ最中で、懲兵
逃れで(当時はdraft=徴兵制度だった)カナダへ、生活の糧を別途に求めて外国へ、とNYを去る若者が増加中だった。

ボストン大学院を無事卒業し、私が米大手広報会社(R&F)に勤務となってNYに来たのは
1963年だった。心理的に「アメリカン・ビジネス」体験を目的とした勤務で、「2年だけ勤務しよう」と考えていた私は最初からマンハッタンのど真ん中に居を構えた。当時マンハッタンに
居住する日本人は、多分片手の指で数えられたと思う。駐在員たちの殆どはニュージャージ州などの近郊に住んでいたし、海外渡航が自由化されたのは1964年だったから、フリーの日本人個人は(留学生など以外には)まず見当たらなかった。

私の記憶に鮮明な、当時の荒廃したNYの世相の例は枚挙にいとまがないから、それらは
別のブログで取り上げることとして、ここでは2件だけ挙げてみよう。
● 麻薬やポルノの巣だったタイムズ・スクエアは犯罪が多発する危険地帯だった。或る夜その近辺を歩いていたらしい日本の大使が、娼婦に飛びつかれて横丁に引きずり込まれ、
身ぐるみ奪われるという事件があった。
 
当時米メディアに日本関係の記事が出るのは希だったが、「大使」という肩書きからNYタイムズあたりが取り上げたと記憶する。その記事に「なんでまた、小柄な日本男性がそんな危険地帯を・・・」と呆れ、次ぎにアマゾン(巨大体格)の娼婦に腕力で横丁に引きずり込まれた彼の驚愕ぶりが彷彿して噴出してしまったのは私だけではなかったのでは。
● 太陽が燦燦と輝く昼日中、五番街を歩いていた私は、後ろから走って来た男性に突き飛ばされた。むっとして、今度この様な無礼行為にぶつかったら抗議しよう、と思った途端にまた、突き飛ばされたのである。どの様に抗議するかなど考える暇もなかった私は、とりあえず希にみる怖い顔をしたのは間違いない。

睨んだ相手は警官で、既に後姿となっていたが、彼が手にしたピストルの銃口を空に向けていたことから、最初の暴走中の男はスリか強盗で、警官は必死で追跡中、と気が付いた
次第。

私のところで取っ組み合いとなって、ピストルの誤発などになっていなかったのは
幸いだった。

コッチはニューヨークそのものだった・・・
2月4日の盛大な葬式で、ブルームバーグNY市長とビル・クリントン元大統領がした追悼の
スピーチが、饒舌にニューヨークnessを捉えている。
● 「NYはタフで、ラウド(loud=声高でうるさい)で、厚かましくて(brash=性急で軽率)、
失敬(irreverent=非礼、ずうずうしい)で、ユーモアがふんだんで、
ずうずうしい(chutzpah=厚かましい)・・・そしてコッチはこの全てを内臓し、それを、人の思惑などに懸念せず、自在に駆使し」てNYを救ったNYネスの権化だった(ブルームバーグ)。
● 大統領時代に彼から貰った禁煙へのアドバイスの手紙、「若者たちに癌や呼吸器の病気になるよ、とアドバイスしても無駄だ。Go after the virility (男性の生殖力(落ちるよ)
でいけ)」を披露(ビル・クリントン)。

b0206225_113293.jpg

彼の生涯のドキュメンタリー(95分)が終った時、観覧者のニューヨーカーたちは立ち上がって拍手した

Photo by Ranko Iwamoto
[PR]
# by Ranko-120 | 2013-02-04 23:25 | アメリカ


Blog # 42 「ベアテ・シロタ・ゴードン」

b0206225_941353.jpg

ベアテ・シロタ・ゴードンさんと一緒に Photo by Asako Miyashita

日本国憲法制定の際、男女同権(第24条)と女性の選挙権(第15条)草案を担当したベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日に亡くなった。

彼女は日本国憲法草案に携わった最後の「生き証人」だった。ただ一人の女性メンバーとしての彼女の奮闘努力がなかったら、現代日本女性が「当たり前」と謳歌している自由や権利(結婚、離婚、財産、相続の権利は男女平等に)が憲法に織り込まれることはなかっただろう。日本政府側が「日本文化と歴史にそぐわぬ」と猛反対していたからだ。

ベアテさんとの出会い
日米間の理解促進を生涯のテーマとしてきた私は、ベアテさんとの出会いに深い暗示を感じている。私たち日本人はもっと自国の憲法を知る必要がある、日本人として、そして人間として、「どの様に生きるか」を真摯に考える必要がある、との思いを想起させる出会いとなった。

昨年5月1日に、日本のアメリカ視察団(愛知PHPクラブ。高田朝子会長)の皆さんに、
「アメリカ最新事情」でスピーチすることになり、ベアテさんも出席されたので、初めてこの歴史の「生き証人」にお目にかかる光栄を得た。

b0206225_921042.jpg

高田会長と一緒に Photo by Asako Miyashita

日本女性として、ベアテさんに直接感謝の念を伝えられる素晴らしい機会に感動した私は、スピーカーというより戦後日本の学生気分になってしまい、予定していた話題 ― 日米友好の桜(2012年は日本が桜を寄贈して100周年)、東日本大震災の支援、米経済、大統領選など ― の途中から脱線、脱線となり、留学生時代の体験談、主として苦労話となってしまった。でも、ベアテさんをはじめ皆さんは「その方が良かった!」と喜んで下さったので安心した。

b0206225_8591067.jpg

講演中です。 Photo by Asako Miyashita

日本国憲法誕生の背景
「この憲法は古くなって時世にそぐわなくなった」「アメリカから押し付けられた憲法」と、改憲の声が高まっている時に、ベアテさんが亡くなったことを私は意味深く捉えている。「今こそ、日本の将来を左右するこの主題について、日本人は深い議論をする時ですよ」と彼女の死が暗示している気がしてならない。

この暗示的提案を意味あることにする為にも、この歴史の生き証人が言い残した憲法誕生の背景を想起することは大事と思う。

「ベアテと語る『女性の幸福』と憲法」(語る人:ベアテ・シロタ・ゴードン、聞く人:村山アツ子、構成:高見澤たか子。昌文社、2006年)に克明に記録されている彼女の言葉を引用するのが手っ取り早いし解り易い。

「アメリカに押し付けられた憲法」ではない。
● 1945年10月にマッカーサーは日本を民主化するための憲法改革を日本政府(幣原喜重郎首相)に要請し、幣原内閣は松本じょう治国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会を
設置した。
 GHQ(連合国軍総司令部)は、政府との連日の折衝と民間(憲法学者、研究会、社会党、個人など)との話し合い、という二本立てで作業を進め、その内容はGHQの草案にも反映された。つまり新憲法はいろんな角度から検討され、草案・試案は各方面から出されていた。
● なかなか出てこなかった政府案が、「松本私案」としてGHQに提案される前に毎日新聞にスクープされてしまった。マッカーサーは「これまでの封建的な憲法ではだめだから、日本人自らが新しい民主的な憲法を考えなさい」と日本政府に迫っていたが、スクープで待ったが
効かなくなった。

毎日新聞に出た松本私案では、国民はいまだに「臣民」の扱いで、男性の権利も限られたものだった、権利の部分に「女性」「母親(家族)」「児童」という言葉は皆無だった。徹底した
「男尊女卑」で女性は人間扱いされていなかった。

以後二つほど提出された松本私案は時代錯誤としか言いようの無い明治憲法とほとんど変わらない内容だった。マッカーサーは、明治憲法と同じものしか出てこないのなら、こちらで
民主的なプランの見本をつくって、日本側で検討してもらったほうがいいという結論に達した
模様だった。このマッカーサーの努力は同じように続けられていたとベアテさんは思うが、それまでアメリカ(マッカーサー)が独断的に進めていた連合軍から委託された占領政策が変わる事態が誕生中だった。
● その事態とは、発足が迫っていた11カ国で構成された極東委員会で、勢力の強かった
中国を筆頭に他の数メンバーも天皇を戦争犯罪人として裁くことを主張しており、またソ連とはすでに冷戦の兆候があったので、マッカーサーの努力が賛同を得るのは無理と考えられたこと。
● それでマッカーサーは、極東委員会が動き出す前に、既成事実をつくる必要があって、
電光石火の取り決め(1946年2月4日、GHQの民生局に憲法草案を8日間でつくる指令を
出す)に踏み切った。はっきり言うと、天皇の戦争責任を重く見ていた極東委員会は、マッカーサーに出し抜かれたということになる。

この件で指摘したいのは、結果的に「アメリカから押し付けられた憲法」と解釈するのは可能であろうが、歴史の事実は、状況的に、「日本国民にとって最善の憲法を」とのマッカーサーの意向を実現するためには止むを得ない事態だった、となる。

「日本国憲法は(古いどころか)世界一新しい憲法」
● 憲法は、国民が恐怖や不安を感じないで暮らすための、いわば「安全の保証」で、戦後一貫して日本の国民を守ってきた。半世紀以上一度も戦争をしなかったことは、「九条」が有効なことの何よりの証拠。
 世界の潮流はいまや「戦争禁止」となっているから、日本国憲法の内容は世界一新しい。歴史を振り返ると、人類はいつも戦争をしてきた。人類が犯した様々な間違いを教訓のかたちにしたのが「九条」といえる。ガンジーの非暴力抵抗と「九条」は哲学を同じくしている。今日でも決して古びていなくて、現在と未来の必要に応えている。

あらゆる効果的な武器を使って人を殺しあうのが戦争で、若し又「9/11」スケールのテロが起きたり戦争が起こったりしたら、全世界は恐怖の波に飲み込まれ、心理的な痛手、精神的な打撃が及ぼす影響は計りしれないものとなろう。

湾岸戦争終結直後の1991年3月に、アメリカで「第九条の会」を立ち上げたチャールス・M・オーバービー氏は、日本国憲法第九条を「地球憲法」と呼んで高く評価している(チャールス・M・オーバービー著、国弘正雄訳『地球憲法 第九条』、たちばな出版、2005年)。
[PR]
# by Ranko-120 | 2013-01-10 23:41 | 政治


Blog #41:日本から「蜆の味噌汁がやって来た!」

全くひょんなコトから、「点と点」が繋がって思いがけない展開となるものだ。

南カロライナ州のMaryと親しくなったきっかけは、彼女が姉ロザリーの看病にニューヨークにやって来たからだった。ロザリーは私の30年来の友人で、オペラ歌手だった。Maryは2011年の7月頃、「2~3週間の予定」でやってきたが、ロザリーの容態が悪化して、9月に亡くなるまで、3ヶ月近い滞在となった。(1月13日2012年のブログ#25)

哀しい体験を共有したからだろう、Maryと私はたったの3ヶ月という短期間で、まるで幼少時代からの友達のような親しい関係となった。Maryは大変気豆、筆まめで、カロライナに戻ってからも、感謝祭、私の誕生日、クリスマス、イースターなどにあれこれ楽しい贈り物のパッケージを送ってくる。孫2人や家族へのお祝いの買い物ついでに私へも、ということらしい。そして
1週間に一度は「OOOをした、OOOをする」といったEメールで彼女の日常の行動を知らせて来る。私が3日も返信を怠ると、「Are you OK?」「Just checking」と
懸念するメールが来る。話題は日常生活のたわいないコトが多い。例えば彼女の庭に住み着いたカメのこととか。カメMarvinの名付け親は彼女の10歳の孫娘で、ブッシュ元大統領の弟と同じ名前なのよ、とか。

大統領の弟と同名のカメ!
面白い話と、動物好きの友人にそのことをメールしたことから、この友人、雨谷恵美子さんとのメールのやりとりが頻繁になった。ジャーナリスト・コラムニストの雨谷さんが、ユング心理学などに造詣が深いことは30年来のよしみで知っていたが、彼女が楽しくも深い深い内容の物語を書いて人の心を癒すことを目指していることを知ったのは、彼女とのやり取りが頻繁になってからだった。

このやりとりで、私が今度NY育英学園に新理事として参加することになったことに触れたら、この学園のホームページで貝堀りを楽しむ子供たちの姿に、彼女は子供時代に潮干狩りをしたことを思い出した。そのメールで今度は私が祖母と「蜆狩り」をしたことを思い出し、最後にふと、「アメリカ生活でもう30年も蜆の味噌汁を食べていません」と書き足した。彼女が「蜆の味噌汁を送らなくっちゃ」となるなどとは全く念頭に無かった。

日本から、しっかり食べられる「蜆の味噌汁」がやって来た。
この懐かしい思い出の「蜆の味噌汁」がニューヨークの私のところにやって来たのはどんぴしゃりクリスマス・イヴだった。熱湯をかけたらパッと口を開けた蜆にびっくりしながら味わったこの「贈り物」に私の目頭は熱くなった。雨谷さんは郵便局で、「着くのは年明けになりましょう」と言われたそうだから、宇宙からの見えない力が加勢してくれたと思えてならない。

後日談
● 雨谷さんからの「贈り物」の中には「ふやき御汁 宝の麩」も入っていた。熱湯を注いだ途端にパッとおわんの中に「春」さながらに花が咲き乱れた感じとなって、驚いた。あまりの素晴らしさに、独り占めするのは勿体無いと、アメリカ人はもとより、ユダヤやコソボの友人たち、
銀行で親しくなった係り員、郵便配達のアジア系の人たちなどにもお裾分けをして喜ばれた。

Kosovoは、独立間もなく日本が真っ先に「独立を承認してくれた」「日本政府が経済的支援をしてくれた」「東京にコソボ領事館を開けた」と、私が日本人であることから話しかけてきて
親しくなった友人。彼の奥さんのお姉さんは、コソボの元ファースト・レディ。4年ほど前に未亡人となったそうだが、エレベーターに奥さんともども乗り合わせた際に、その奥ゆかしい品格に深く感銘し、後で彼に「奥さんのお姉さんかお母さん?」と訊いて知った。この素晴らしい貴婦人に、是非日本の素晴らしい「宝の麩」の御汁を鑑賞して貰いたい、との願いから数個お裾分けすることになった。

b0206225_821917.jpg

Photo by Ranko Iwamoto

● 「蜆の味噌汁」は、貝殻を貯めて「金槌で叩いて粉にして飲みます」と雨谷さんに書き送ったら、心配した彼女が製造元に連絡し、「社内でも外でも、そうゆうコトをした人はおりませんし知りません。金槌で粉にした位では内蔵を傷つけるかも・・・」で、雨谷さんから「ダメですよ!」とメールが来た。

蜆の殻のサプリメントがあるくらいだから、と本気でやる気でいた私だったが、それで断念した。

b0206225_823098.jpg

Photo by Ranko Iwamoto

お裾分けしたエステルさんは「美味しい!どこで買える?」と訊く。「日本から来た特別の味噌汁だから、まず売ってないでしょう」と答えたら、今度空になったパケージの袋を持参して、NYの日系スーパーで問い合わせると言っている。
[PR]
# by Ranko-120 | 2012-12-27 08:16 | 日課


Blog #40: 贈り物

この世の出来事は「happen for a reason」(起こるべくして起こる)と口にする友人が増えてきた。主としてアメリカ人の友達である。なかなか哲学的な言葉で、私は感慨無量となってしまう。「アメリカ」のたどって来た旅路に想いがはせるからからだろう。

六十年代の米社会ではフィロソファー(哲学者)は、夢想的で足が地についていない非現実な人間(ばか者)という認識が世相だった。留学生時代、日米の伝統的思考の違いの解明にやっきになっていた私に、「チャイニーズ・フィロソファー」という綽名をつけた学友がいた。
古代ギリシャやローマの賢人の人生論にとりつかれていた彼女は、良く私の傍に来て、文化論をふっかけて私を閉口させた。当時の私は異文化思考の研究中で、確信に至る私見を持っにはまだまだ程遠かったし、理論的に意見をのべる技術など身についていなかったからだ。

ノーマ・ジーン・シザーという名のこの学友は、生きることで試行錯誤していたに違いない。
別世界から来たこの私に、何か違った生き方の雰囲気を感じて、それを追求したかったのだろう。思うようにはかどらないので、フラストレートし、「愛すべき」という気分をこめて私を
「チャイニーズ・フィロソファー」とよんだのだのだろう。

Blessed Season(祝福の季節)

感謝祭から年末にかけての期間は「祝福の季節」と認識されている。

子供、家族、友人たちへのクリスマス・プレゼントを考え、その買い物に人々は忙しくなる。
また、越し方を振り返り、「無事に過せてよかった」「来年もよろしくね」という心境となり、そのやり取りが増加する。いずれも気ぜわしい平常の生活で、ともすれば忘れがちな
大事な心情、「思いやり」、が最優先となるシーズンだ。

クリスマスという待ち遠しい楽しみに満ちた日を真近にして、乱射事件でコネチカットの小学生20人を含む27人が命を落としたことなどで、私は祝福からほど遠い滅入った気分からなかなか抜け出せないでいた。

しかし、クリスマスカードや謹賀新年のメールが届き出し、私もそれらを発送しはじめると、
少しづつ滅入った気分が持ち直しだした。私は市販のカードではなく、手製の絵や写真入りの
年賀状を手間をかけてつくって出す習慣となっている。そして殆どみな、手書きでひと言書き加えるのも習慣化している。

この作業の過程で、気が滅入っている時は、まず「動く」のが大事と再確認することになった。何はともかく、手でも身体でも動かしていると、良い方への気分転換となるということ。手製の年賀状を準備し始めた頃から、私の気分はどんどん良くなって、楽しくさえなり、ふと「祝福の季節」自体が「贈り物」と意識するに至った。

私達は「プレゼント」は綺麗に包装されたモノ、と意識しているが、そうではない、「無形」の
様々な贈り物がある・・・先人が遺した「言葉」や人の「親切」「思いやり」、旅の道連れや先導してくれる有難い「人との出会い」、と考え出すとキリが無いほど私達の周りには贈り物が
溢れているのではないだろうか?

人生行路でいろいろな贈り物を貰っても、贈り物と気づかなかったりすることも多いのではないだろうか?
[PR]
# by Ranko-120 | 2012-12-26 20:00 | 日課

    

世界中を飛び回って 活躍中!
by RANKO-120
カテゴリ
全体
プロフィール
異文化間のコミュニケーション
ビジネス
若者への遺言
日本女性
高齢者に贈る
アメリカ
思い出
コミュニケーション
日課
政治
未分類
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
Blog #44: 「天職」..
at 2013-02-19 23:45
Blog #43: コッチ元..
at 2013-02-04 23:25
Blog # 42 「ベアテ..
at 2013-01-10 23:41
Blog #41:日本から「..
at 2012-12-27 08:16
Blog #40: 贈り物
at 2012-12-26 20:00
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧